先の見えない将来に怯えて結婚をしたはずなのに

そもそもは、先の見えない将来に怯えて、結婚と出産を選びとったはずなのに、実際にいま家族と暮らしていて、その醍醐味は不確実性にあると思う。

 

どうも自分の思うようにいかない。それ自体が心地よいということを、これまで私は知らなかった。

 

家族はたしかにセーフティネットで、扶助の作用をもっていて、土台に安心感を与えてくれる。ただその一方で、思いもよらぬことが起こる。自分にとっての大切なものと、相手にとっての大切なものが違う。お互いそのままでいいと思っていても、一緒に生きていこうとすると、突き合わせなければいけないことがいくつも出てくる。

 

子なんて、ひとりで出かけられないのだから、常に突き合わせの連続。
(息子はよく泣く。私にとって些末なことを、いま優先するように全力で求められる。そして息子はいつも、大切なことより些末なことばかりを要求されると感じていることだろう)

 

うんざりすることもたくさんある。それなのに、一人で暮らしていたころの、自分で大体のことが計画通りに進められる心地良い毎日に、あの安定した日常に、戻りたいと思えない。

 

誰かに左右されたい。それは舵を放り出したいという意味ではなくて、自分の舵を握りしめながらも、たくさんのものに振り回されて、予定外の波におそわれて、唸りながら進路を決めたい。ひとりではけして見えない景色…とかいうワードは好きじゃなかったけど(ひとりでしか見られない景色もたくさんあるはずだから)、でもやっぱり、ひとりではけして見えないものを次々と見たいのだ。

 

自分のことを自分でふるいたたせるのは大変だし、さみしい。私はいま、さみしくない。結婚と出産の前はずっとさみしくて、だから誰かと一緒に生きる約束がしたかった。たとえ解消可能なまやかしだったとしても。

でも、いま、私がさみしくないのは、明日どうなるのかは関係なくて、ただ今日一緒にいられる人がいる、そのことが理由のように思う。