「限界から始まる」を読んでいる

「限界から始まる」を読んでいて、いくつも腑に落ちる点、見に覚えがある点があった一方で、承認欲求にかんするくだりは、しっくりこなかった。

 

「今でも女は、自分の力で承認を獲得することができないのだろうか」

 

 

私は、自分のことを、承認欲求の強い人間だと思っていたのだけど、実はそうでもないのかもしれない。もしくは、薄らいでいるのかもしれない。いま、この結婚をつづけたい・子と一緒にいたいと思うのは、承認されたいのではなくて、さみしさを感じたくないからだと思う。

 

自分はひとりだということを、できるだけ感じたくない。忘れていたい。

 

承認というのは、経験としてはたくさん得る必要があると思うんだけど、ずっと継続されつづけている必要はないのかしら。もしくは、いま仕事や友人から、具体的な承認を得ていて、それに満足しているのだろうか。

 

 

私の、子に対する感情は、無償の愛にはほど遠い。私は、できる範囲でしか、たいせつにすることはできない。とても不機嫌になるし、いつもニコニコはしていられない。

 

しかし、たまたま親子となっただけなのに、子は自分と一緒にいてくれている。それがもう、とてつもない贈与なので、なにをどれだけ与えたとしても、等価交換にはならない。私から子への有償の愛は、息子が一緒にいてくれるという具体的なありがたみと比べると、いつも足りなくてすみません、という感じ。

 

「なんの理由もなく自分と一緒にいてくれる」存在がほしかったのかなと思う。自分の性格とかコンディションとか見た目とか関係なく、自分と一緒にいてくれる存在。

 

夫は、大人として、自分の判断でそうあることを選んだ(なんだか申し訳ない気持ちになるけど一応事実)けど、子どもは子どもだから、自分で選んだわけではない。私に対して、いまこの瞬間には、一緒にいることを能動的に選び、能動的に喜んでいるけれど、それ以外の選択肢が与えられていないし、知りもしないから、強制的に選ばされているようなものだ。

 

そんな存在を、心から望んで、産み、育てているんだなぁ…と思うと、自分は本当に勝手な人間なんだ…!と思う。上野さんも、子を産み育てることはエゴイズムだと指摘していて、周りでもそういう意見を聞いていて、ずっとしっくりきていなかったけれど、なるほどたしかに、その通りだ。悪いという意味ではなく、ものすごく自分本位な行為だということ。

 

でもすみません、私はどうしても、自分本気で、そういう存在がほしかったのだ。それは息子を個人として尊重しないということとはまったく別で、子どもを産むというのはそういう構造なのだというはなし。その構造を自覚しながら、別の人間だということ、いつか離れていくことを知りながら、出来ることをするしかない。

 

 

今日は、子と、夫と、夫の親戚一同と食事をした。息子は、小田急線に乗れないと泣き叫ぶも、丸ノ内線にひと駅だけ乗ると伝えたら、とてもよろこんで乗った。かわいいね。たのしかったな。