昼寝をさせなければ命を取られるかのごとく

息子が4歳になった。

昼寝をしてくれない。

 

せっかく誕生日と翌日にお休みを取るも、台風が直撃してしまい、がっつり出かけるわけにはいかなくなった。

誕生日当日は、朝から息子が行きたがる「キドキド」というトランポリンやボールプールのあふれる遊び場に連れて行き、お昼ごはんを食べて一旦帰宅。お昼寝をさせてから、今度は電車に乗って実家に泊まりに行った。

 

翌日は、台風が吹き荒れる中、午前のうちに電車に乗って自宅へ。昼ごはんを済ませたあと、昼寝をさせようとするも、寝ない。ベッドの上で飛び跳ねながら、よくわからないYouTuberのうたを熱唱し、かと思えばTOKIOのAMBITIOUS JAPAN!のメロディーで「よこはまーかわさきしながわー」と叫び、リビングと寝室を往復して走り回って、1時間経っても寝ない。私はそのあいだベッドに寝転んで目を閉じてみるんだけど、とにかくベッドが息子の跳躍によって揺れまくるので船酔いみたいになってしまい、いいかげん「はやくねなさい!!!」とキレてしまう。即座に「ねない!ねむくない!やだ!」との返答。今日もうんざりである。

 

私と息子のふたりしかいない部屋なのに、誰かにこう言われている気がする。

ていうか、そんなに嫌がるなら、昼寝しなくてもよくない…?なぜ、そこまで真剣に…?

 

私も昔から不思議に思っていた。母たちが次々と発する「昼寝させなきゃいけないから」というワード。昼寝ってさせなきゃいけないものなんだなぁ。眠くなったら寝ちゃうものなのかなぁ。

 

しかしいまや、昼寝をさせないとこの子の命が取られると言わんばかりに血眼になって昼寝をさせるのである。

 

だって、昼寝しないと、夕方からがマジで地獄なんですよ!!!!!

 

昼寝したくないと叫んで飛び跳ねまくっていかにも元気な息子は、そのまま昼寝をしないと夕方から異常に機嫌が悪くなる。いつもモリモリ食べ尽くす唐揚げすら「いらない!食べない!」と言い出し、ただでさえ好きじゃないお風呂に誘うと大声で泣いて抵抗、さらに夜寝るときも「まだ寝ない!」と怒って手足をばたつかせ私のお腹にガンガン蹴りが入る…という展開に。そして昼寝してない日ほど、夜も寝なかったりする。「昼寝てないから夜早く寝る」みたいなシンプルな世界線ではないのである。大人もそうでしょう。

 

と、まぁ本当にうんざりするので、自分のためにも子のためにも、必死で昼寝に取り組むのだ。

 

しかし、昼寝は昼寝。昼寝に執着する変な親みたいになる。なんだかなぁ。

 

「お金持ちは子どもにクリエイティブなあそびをさせる」というはなしがキライ

YouTubeばかり見せるのではなく、クリエイティブな遊びをさせよう」と言うけれど

 

そして、それは「子どものゆたかな心をはぐくむため」というけれど

 

結局のところ、消費する側でなくて、作り出す側になれたほうが、資本主義の中で生き残っていけるから、という意味で露骨に重要視しているんじゃないかしら。と思うことが最近増えた。

 

別にそれはそれでいいんだけど、子どもの内面のゆたかさを育もうという文言をならべながら、そこに「お金持ちや成功者はそうやって子育てをしている」という語りを差し込んで、「お金持ちや成功者はゆたかな心を持っている人たち」みたいな文脈が作られているのを見かけると反吐が出る。

 

しかし子どもといると、なんてゆたかなんだろうと思うことがたくさんあり、育むどころか、すでにたくさん持っているものを邪魔したくないなぁという気持ちになる。

 

ゆたかってなんだろうね。子どもがゆたかだと感じるのはどういうときだっけ。常識に囚われないとか、素直とか、そういうことに見えて、そうじゃないんだよなぁ。3歳の子どもは、相手の顔をよく見ているし、人によって対応をちゃんと変えるし、社会的な素養をどんどんと身につけていてギョッとするんだけど、でもそれによって、心のゆたかさが損なわれているようには感じない。

 

ただそれでも、感じていることや疑問を、躊躇なく表情に出したり、すっと言ったりすることが多いから、心がゆたかだなぁと思うんだろうか。もし大人たちが、同じように、感じていることを、すっと顔や口に出せたなら、実はひとりひとりの内面がゆたかだなぁと気づく、なんてこともあるんだろうか。

 

いや、大人たちが言う本音なんて…と思うけれど、それは言語能力が足りないだけで、心のなかではいろんなことが起こっているのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

「限界から始まる」を読んでいる

「限界から始まる」を読んでいて、いくつも腑に落ちる点、見に覚えがある点があった一方で、承認欲求にかんするくだりは、しっくりこなかった。

 

「今でも女は、自分の力で承認を獲得することができないのだろうか」

 

 

私は、自分のことを、承認欲求の強い人間だと思っていたのだけど、実はそうでもないのかもしれない。もしくは、薄らいでいるのかもしれない。いま、この結婚をつづけたい・子と一緒にいたいと思うのは、承認されたいのではなくて、さみしさを感じたくないからだと思う。

 

自分はひとりだということを、できるだけ感じたくない。忘れていたい。

 

承認というのは、経験としてはたくさん得る必要があると思うんだけど、ずっと継続されつづけている必要はないのかしら。もしくは、いま仕事や友人から、具体的な承認を得ていて、それに満足しているのだろうか。

 

 

私の、子に対する感情は、無償の愛にはほど遠い。私は、できる範囲でしか、たいせつにすることはできない。とても不機嫌になるし、いつもニコニコはしていられない。

 

しかし、たまたま親子となっただけなのに、子は自分と一緒にいてくれている。それがもう、とてつもない贈与なので、なにをどれだけ与えたとしても、等価交換にはならない。私から子への有償の愛は、息子が一緒にいてくれるという具体的なありがたみと比べると、いつも足りなくてすみません、という感じ。

 

「なんの理由もなく自分と一緒にいてくれる」存在がほしかったのかなと思う。自分の性格とかコンディションとか見た目とか関係なく、自分と一緒にいてくれる存在。

 

夫は、大人として、自分の判断でそうあることを選んだ(なんだか申し訳ない気持ちになるけど一応事実)けど、子どもは子どもだから、自分で選んだわけではない。私に対して、いまこの瞬間には、一緒にいることを能動的に選び、能動的に喜んでいるけれど、それ以外の選択肢が与えられていないし、知りもしないから、強制的に選ばされているようなものだ。

 

そんな存在を、心から望んで、産み、育てているんだなぁ…と思うと、自分は本当に勝手な人間なんだ…!と思う。上野さんも、子を産み育てることはエゴイズムだと指摘していて、周りでもそういう意見を聞いていて、ずっとしっくりきていなかったけれど、なるほどたしかに、その通りだ。悪いという意味ではなく、ものすごく自分本位な行為だということ。

 

でもすみません、私はどうしても、自分本気で、そういう存在がほしかったのだ。それは息子を個人として尊重しないということとはまったく別で、子どもを産むというのはそういう構造なのだというはなし。その構造を自覚しながら、別の人間だということ、いつか離れていくことを知りながら、出来ることをするしかない。

 

 

今日は、子と、夫と、夫の親戚一同と食事をした。息子は、小田急線に乗れないと泣き叫ぶも、丸ノ内線にひと駅だけ乗ると伝えたら、とてもよろこんで乗った。かわいいね。たのしかったな。

先の見えない将来に怯えて結婚をしたはずなのに

そもそもは、先の見えない将来に怯えて、結婚と出産を選びとったはずなのに、実際にいま家族と暮らしていて、その醍醐味は不確実性にあると思う。

 

どうも自分の思うようにいかない。それ自体が心地よいということを、これまで私は知らなかった。

 

家族はたしかにセーフティネットで、扶助の作用をもっていて、土台に安心感を与えてくれる。ただその一方で、思いもよらぬことが起こる。自分にとっての大切なものと、相手にとっての大切なものが違う。お互いそのままでいいと思っていても、一緒に生きていこうとすると、突き合わせなければいけないことがいくつも出てくる。

 

子なんて、ひとりで出かけられないのだから、常に突き合わせの連続。
(息子はよく泣く。私にとって些末なことを、いま優先するように全力で求められる。そして息子はいつも、大切なことより些末なことばかりを要求されると感じていることだろう)

 

うんざりすることもたくさんある。それなのに、一人で暮らしていたころの、自分で大体のことが計画通りに進められる心地良い毎日に、あの安定した日常に、戻りたいと思えない。

 

誰かに左右されたい。それは舵を放り出したいという意味ではなくて、自分の舵を握りしめながらも、たくさんのものに振り回されて、予定外の波におそわれて、唸りながら進路を決めたい。ひとりではけして見えない景色…とかいうワードは好きじゃなかったけど(ひとりでしか見られない景色もたくさんあるはずだから)、でもやっぱり、ひとりではけして見えないものを次々と見たいのだ。

 

自分のことを自分でふるいたたせるのは大変だし、さみしい。私はいま、さみしくない。結婚と出産の前はずっとさみしくて、だから誰かと一緒に生きる約束がしたかった。たとえ解消可能なまやかしだったとしても。

でも、いま、私がさみしくないのは、明日どうなるのかは関係なくて、ただ今日一緒にいられる人がいる、そのことが理由のように思う。